だるまの目入れと《法》
目入れを願いの達成だけで説明してよいのか。少林山達磨寺の作法と、目を覆う法の操作を比較する。
目入れには何を記すのか
少林山達磨寺の案内では、願いを込めて一方の眼を描き、1年を無事に過ごしたとき、あるいは願いが叶ったときに、感謝を込めてもう一方を描く。願いの成就を記すだけでなく、無事に過ごした時間への感謝も含まれる作法である。これは同寺の説明であり、すべてのだるまの使い方を1つに定めるものではない。[1]
法の正式ステートメントは、願うことが思考や行動の代わりになっていないか、という作者自身への疑問を記している。一方、参照した寺院の説明は、願いを託すことと精進することを結びつけている。作品の問いを、願掛けをする人が行動しないという一般化へ置き換えると、この差が抜け落ちる。[1][2]
描き足す目と、覆われる目
目入れでは、目を描く行為と、その後に訪れる出来事が関係づけられる。法では目が黒で覆われ、その被覆が身体へ広がる。眼が願いの経過を示す位置であることを踏まえると、被覆は色や装飾の変更だけではなく、その経過を像に読み取る条件にも及ぶ。[2]
ただし、目を塗り潰したことから宗教的な意味が完全に消えるとは言えない。丸い形や題名からだるまを知る人は、覆われた眼にも慣習を重ねられる。操作によって妨げられる行為と、見る人に残る知識を分けることが、この作品と慣習を比較する際の要点である。

慣習への問いの範囲
ここでは、慣習の中で目に与えられた役割と、それを扱う制作上の操作を比較している。福だるまを使う個々の人の信仰や動機を評価する比較ではない。宗教的な由来、願掛けの作法、作者の問題意識を区別すると、題名や像の形だけから作品の立場を決めつけずに検討できる。
描き終えた像と、覆われる像
目入れの作法では、描く前、片目を描いた後、両目を描いた後という状態を、願いと出来事の経過に結びつけられる。対して法の5体は、同じ場所で同時に見られる過去の姿である。像を段階的に変える行為と、異なる段階を並べて見る構成は、時間の提示方法が異なる。作品が参照するのはだるまの外形だけでなく、像の状態へ時間を託す慣習でもある。
この比較からは、眼が見えないことを願いの不在と同一視できない理由もわかる。覆われるのは眼を確認する条件であり、像に何を託したかという過去の行為まで取り消されるわけではない。被覆された像を前にするとき、願いが成就したかどうかとは別に、その経過を何によって確かめようとするのかが問題になる。


